5坪の店を花開かせ、直営450店舗に
「経営計画会」が成長のエンジンに
5坪のラーメン店からスタートしたハイデイ日高の神田正代表取締役執行役員会長(以下、神田会長)は、「屋台の代替店」になると決意して創業。店舗は、直営なのに、まもなく450店舗。2023年に創業50周年を迎え、店頭公開時に60億円だった時価総額は1000億円を超える。税理士先生に言われて、創業時から「経営計画発表会」を開催。当時、飲食業界ではあり得なかった「週休2日制」を発表会で宣言。実際に実現した。事業が成功した要因は何かと問えば、「お金がなかったから、覚悟が違った」と語る。これまで駅前中心の店舗展開だったが、今後はロードサイド店も展開していく。現在83歳、事業意欲はまったく衰えていない。
八木美代子(以下、八木) 私は若いころ、池袋のほうに家があったので、池袋や新宿の日高屋はしょっちゅう行っていました。さっぱりした味噌ラーメンが好きなので、自分ひとりで行く唯一の飲食店でした。タンメンもおいしいです。
神田正(以下、神田) タンメンが一番売れ筋です。
八木 今日は、私が愛用したお店の創業者にお会いできて本当に光栄です。本題に入りますが、業績は非常に好調ですね。
神田 何とかね、コロナの渦中は苦しかった。2021年2月期、2022年2月期と赤字が続いた。朝起きると1日1000万円の赤字が出るんだからね。月に30億円の赤字ですよ。国から補助金が出たのも助かったけど、内部留保がたくさんあったから、生き延びれたね。
コロナ禍ではもっと苦しむかなと思ったけど、思ったより早く回復できました。2023年3-11月期の売り上げが3割ぐらい伸びた。営業利益は24倍の36億円。「日高屋」の営業時間を延ばして夜間にも営業できるようになったし、駅前の店舗の客足が戻ってきた。
八木 増配もされました。
神田 前よりも今の方がいいですよ。2024年2月期の年間配当は35円。前期に比べて11円増やすと発表しました。
「時価総額が60億円から1000億円になったんだからね、すごいことだよ」
八木 株価はどうでしょうか?
神田 株価は下がっていたけど、少し戻ってきたね。時価総額は1000億を再び超えるようになったね。ラーメンで1000億円ですよ。1999年に公開したときは時価総額60億ぐらいだったけど、それが今では1000億円だからね。公開のときに買ってくれた人は儲かったよね。60億が1000億になったんだから、自分で言うのもなんだけど、すごいことだ。
ところで、八木社長はどんな商売をしているの?
八木 自分で創業したのですが、新しくビジネスを始めた起業家や中堅・中小企業のオーナー、経営者に税理士の先生を紹介するのがメインの事業です。
神田 私は、税理士の先生には本当にお世話になりましたよ。創業したころはどんぶり勘定でしたからね。
銀行にカネを借りに行ったら、「帳簿を見せてくれ」と言われて、「帳簿なんかありません。でも儲かっているよ」と言ったけれど、「それではダメです。損益計算書を出してくれないと銀行内で稟議書が書けない」と言われた。
言われてみるとその通りだ。それで銀行が税理士さんを紹介してくれました。私が2軒目の店をやっていたころです。
ただね、銀行に最初に紹介された税理士さんは、本職の税の方はあんまり得意じゃなくてね(笑)。結構間違って申告して、税務署から追徴金やら延滞税やらを取られたこともありました。
でもね、その税理士先生は経営に関してはしっかりとアドバイスをしてくれた。その先生に「経営計画発表会をやれ」と言われた。びっくりしたね。最初は無茶な話だと思ったけど、言われるままにずっと続けて、今日まで50回くらいやっています。
税理士先生に言われて「経営計画発表会」を実施、成長のエンジンに
八木 創業して間もなく経営計画発表会ですか。
神田 最初は抵抗もありましたよ。「経営計画発表会をやれと言うよりも、先生が税務をちゃんとやってよ」と言ったぐらい(笑)。
初めは、先生が経営計画書を作ってくれた。1年に1回発表会をやったけど、最初は先生の作った資料を棒読みですよ。2年間ぐらいは何をどう発表していいのか、まったくわかりません。3回目あたりからだんだんわかってきたな。
八木 発表会は最初、どなたを対象にやったのですか、
神田 まだ店が2軒しかない時代だからね。社員とアルバイトだね。銀行の人も呼んだけど、来たのは、上司に「行って来い」と言われてやってきた若い行員さんだった。仕入先の八百屋さんや肉屋さんも呼びました。
「将来こうやりたい」って言ったらね、そういう人たちが「そんだったら、俺らも応援しよう」となってくれたのは、ありがたかったなあ。
時間差はあるけど、発表会で言ったことは全部実現できています。経営計画発表会が成長のエンジンになったことは間違いないです。
今は社員が1000人ほどいるから、1回あたり250人ずつで4回やる。やるたびに、経営計画発表会は大事なことだとつくづく思いますね。
休めない時代に「週休2日制を実現する」と経営計画発表会で宣言、実現する
八木 経営計画発表会で発表した中で特に思い出に残っているものは何ですか。
神田 強烈に覚えているのは、福利厚生。具体的に言うと「週休2日制の実現」です。当時、週休2日制は松下電器産業(現パナソニック)など大手しか実現できていなかったんですよ。
経営計画発表会で宣言したことは全部実現した
ラーメン屋では一番早かった。「週休2日制は絶対やる」って言って、まず隔週をやった。それから週休2日制、これが一番思い出に残っています。
その当時、ラーメン屋は週に1回も休めないんですよ。月2回ぐらいです。だから、周囲には「週休2日なんて、バカ言ってんじゃない」と言われたもんね(笑)。
八木 上場も宣言されたのですか。
神田 創業から20数年経ったころかな、「俺は将来、上場するんだ」って言ったら、また「バカやってんじゃないよ」と言われた(笑)。
金融機関にカネを借りに行ったって、担保がないとお金を貸してくれません。担保は土地のことですよ。そんなのあるわけがない。だから、直接金融の証券市場からお金を集めようと思って「上場するんだ」って言ったわけ。結局、できちゃったよね。
事業が成功した最大の要因は、「お金がなかったこと。覚悟が違うよ」
八木 事業が成功した要因は何ですか。
神田成功の要因はね、お金がないこと。振り返ってみるとね、お金がないから事業を拡大できたんですよ。お金があったら、ラーメンはやっていません。
だって、ラーメン商売は大変だもの。40年前、50年前、最初は私一人でやった。借金してやったから、絶対につぶしちゃだめだという覚悟があった。事業に対する情熱はすごかったですよ。
絶対に成功するぞという精神状態になれば、どこに店を出しても成功します。お金があったら、あそこまで自分を追い込めない。お金がなかったからやれたのよ。
もし私が横浜の中華街で生まれていたり、財閥の家の出身だったら、今の自分はないですよ。貧乏だったから、やれたんですよ。
「村一番の貧乏な家、朝から晩まで働くおふくろの後ろ姿が日高屋を作った」
八木 「村一番の貧乏」だったとおっしゃっていますね。
神田 そうそう、うちは貧乏だったね。親父は満州に戦争に行って鉄砲の弾を食らって傷痍軍人として復員したんですよ。復員後も体調がよくなくて、早く亡くなった。なので、おふくろがゴルフ場のキャディをして4人の子どもを食わせてくれた。
おふくろはいつ寝ているかわからないぐらいによく働いていた。昼はキャディバックを担ぐきつい仕事でしょ。夜は針子と言って裁縫だね。子どもたちの破れた服を縫い合わせてくれる。朝、子どもたちが起きると、おふくろは、トントントンと大根を切っている。おふくろがいつ寝て、いつ起きたのか、わからなかった。「おふくろは寝ていないんじゃないか」と子ども心には思っていたね。
おふくろのあの後ろ姿が、今の日高屋を作った。はい、間違いないです。「あれぐらい苦労すれば、できないことはない」って私の潜在意識に染み込んだんですよ。
苦労の連続だったおふくろだけど、99歳まで生きたよ。仕事をしたら長生きできますよ。素晴らしいでしょ。
私はまだ83歳ですよ。90歳ぐらいまで今の調子で頑張りますよ。遊んだらダメだね。挑戦、挑戦していけば長生きできますよ。
八木 「まだ挑戦、挑戦」という言葉が素晴らしいです。創業期の頃のお話を伺いたいのですが、5坪ぐらいのラーメン店から始められたのですね。
神田 創業する前に大手のメーカーに正社員として採用されました。おふくろは喜んだけど、自分の性分には合わなかった。会社に行って、毎日、ドリルで穴を開ける作業をしたけど、つまらないので、1年弱で辞めた。貧乏で育ったから、現金商売をしたかったのもあるね。
八木 サラリーマンは安定しているじゃないですか。
神田 サラリーマンは月に1回給料をもらうでしょ。でも、ラーメンの店をやったら、毎日現金が入ってくる。感触が全然違う。
「ラーメン店はいいなあ」と思ったのは、ラーメン店の丁稚をしていたころ。キャベツとか肉とかを仕入れに行くでしょ。でもツケ払いだから支払いは2カ月先でいい。ラーメンは毎日売れて現金が入ってくる。今で言うキャッシュフローがいいわけ。このとき、丁稚奉公の身だったけど、「ラーメン店はいい」とピンと来た。
製造業は先に設備投資して、工場ができても、すぐに現金は入ってこないでしょ。だから、ラーメン店をやったの。
ラーメンの神様に怒られてしまうけど、正直なことを言うと、ラーメンの店をやりたかったわけではないのよ(笑)。
理念を浸透させるため、フランチャイズではなく直営店にこだわり続ける
八木 ラーメンは作った経験がおありだったのですか。
神田 経験ないのよ。出前持ちを8カ月ほどやって、あと半年ぐらい見習いをやったぐらいですよ。
ラーメン作りを教えてもらったのは、独立後に働いてくれた職人さんたち。職人が入ってきては辞める。また新しい職人が入ってくる。その職人さんたちに教わった。「あんた経営者なのに、こんなこともできないのか、バカ野郎」なんて言われながら、全部覚えた(笑)。
そんな私が作った会社が業界で2位だからね。まもなく売り上げが500億円ですよ。
八木 お店は全部直営店なんですね。直営にこだわる理由は何ですか。
神田 直営だと、理念が浸透しやすい。私はね、そんなに儲けようって気はないの。一番の狙いは、地域のインフラになりたいってこと。当社が出店すれば、店がある地域の皆さんが喜んでくれます。「うちの町にも来てくれよ」と言ってくれるほどですよ。そのことに生きがいを感じるんです。
そんなに儲けるつもりはないから、埼玉、千葉、神奈川、東京でやってきた。他社さんは、フランチャイズ方式で会社の規模を大きくするけど、うちは少しずつ着実に出店してきました。
群馬、栃木、茨城の3県にも出ていきますけれど、一気には伸ばしません。株主さんにも配当で還元しながら、地域密着型で行きますよ。
起業のヒントは、駅前にあった屋台。屋台の代替になれるとラーメン店開業
八木 神田会長は当初、「屋台はいずれなくなる。その客を取り込もう」と見通して、店の数を増やしたのですか。
神田 うちは屋台の延長なんです。私が20代のころは、大宮駅も新宿駅もそうですが、駅を降りると、そこにはラーメン屋とおでん屋の屋台があった。最終電車まで屋台は黒山の人だかりだった。おでん屋ではおでんをつまみに一杯飲んでいる。ラーメン屋ではラーメンを食べながらちょい飲みしているんですよ。
そのうち屋台がなくなるのを見通していたね。屋台は道路を占拠しているでしょ。警察は許さなくなると思った。衛生面でもよくない。保健所のメスが入ると踏んでいた。屋台はそのうち消えるだろうとね。
そこで考えた。「屋台の客はどこに行くんだろうか」「駅前に店があれば、うちの店に入ってくれる」と考えたわけ。それで、駅前に店を次々と出した。この見通しは当たったね。どこの駅前に出しても、うまくいった。
世の中の逆を行くからうまくいく。郊外と言われたら駅前、駅前と言われたら郊外
八木 クルマ社会が到来してきたので、郊外型店舗が成功するとは考えなかったのですか。
神田 銀行にお金を借りに行ったら、銀行から「駅前なんてバカ言っているんじゃないですよ。クルマ社会になれば郊外ですよ。すかいらーくを見てご覧なさい。郊外で成功しているでしょ」と説得してきた。私は屋台の客がうちに来るって確信があったから、駅前に次々と出して、成功したでしょ。
でも、今は逆ですよ。どんどん郊外に店を出していますよ。大企業は何十年も同じことをやっちゃダメです。駅前で成功したから、駅前にこだわり続けていたら、ダメになってしまう。時代の変化を見抜くというか、変化を敏感に感じ取ることが経営者には大事です。
コロナのときも、大手のファミリーレストランが次々と店を閉めた。私たちは逆を行った。ファミレスが閉めた店を次々とうちの店にしたわけよ。家賃が半額だもの。内部留保があったから、コロナの時に新規出店資金を手当てできた。それが今、花咲いているわけですよ。
八木 結構な数の店を出していますね。
神田 今、東京都内に200店舗以上ある。埼玉県が100店舗以上、神奈川県が74店舗です。千葉県が55店舗だね。コロナウイルスが蔓延していたときに駅前の店の売り上げが減ってしまった。サラリーマンがテレワークで働くようになった影響です。
※2024年4月17日時点の店舗数
仕方がないから、苦し紛れに道路に出した。郊外のロードサイド店のことね。そしたら、宝の山だったわけ。茨城県や群馬県に進出しているのは、ロードサイドが多いですよ。この2つの県はクルマ社会で成り立っている。
「喧嘩ばかりしていたが、弟、義弟がいたから日高屋は400店舗まで伸びた」
八木 同じことをやらない。同業者と逆を行く以外に、直営で400店舗を持つ会社になれたほかの要因はありますか。
神田 実弟と義弟がいたから、ここまで大きくできた。義弟は妹の夫のこと。1人は工場長をやってくれて引退。もう1人は私の後に社長をやってくれて、今は相談役。この二人がいたから、ここまで大きくできた。
創業期の1店舗、2店舗のときに借金をして次の店を出すじゃないですか。従業員に辞められたらアウトです。でも、弟二人は絶対辞めないと信じていた。しょっちゅう喧嘩をしましたけど、二人はよく辞めないでいてくれたと感謝しています。
当時は24時間営業でした。私が昼間を担当して、夜の9時ごろに遅番の従業員が来るはずが来ない。そうなると、夜中も働かなきゃいけない。3日ぐらい働き通して、やっと休めるなんてざらにありました。そんなとき弟、義弟がやってくれたから、なんとかなった。
八木 ファミリービジネスのある種の極意ですね。
神田 大きくなったもう一つの要因は、会社にしたことです。いまでもラーメン店は個人経営が多い。こっちはすぐに会社組織にしたから、強いですよ。会社組織にしようと思ったのも、二人がいたからです。
当時は大工さんなんかも見習いで入って、一人前になったら、独立するのが普通でした。ラーメン店も個人経営が当たり前だから、独立、独立です。株式会社にして何百店も抱えて上場しようなんて考える人はいなかった。
八木 お二人には、会社を大きくするとおっしゃったのですか。
神田 何百店舗を持つなんて言わないけれど、「10店舗ぐらいは持てる会社にするから」と二人に言ったね。「大宮駅から赤羽駅まで沿線の駅にうちの提灯でつなげて見せるから、一緒にやってくれ」と頼んだね。それが、赤羽駅どころから、小田原駅まで店を出すようになったからね。人生はわからないもんだね。
八木 お二人はよく残ってくれましたね。
神田 仕事は大変だよ。私の悪口を言っても一生懸命働いてくれました。二人に「なぜ残ってくれたのか」と聞いたことがある。一つは、私が夢を語ってくれたからだと言うんだね。もう一つは、会社の数字を全部オープンにしたからだって。
当時はどんぶり勘定。家のおかずも店のレジも全部一緒だった。それじゃいけないというので、会社の数字は全部オープンにした。「私の給料はこれだけ、内部留保はこれだけ」とやったから、「じゃあ、信じよう」と一緒にやってくれた。
その恩義に報いるために、1人は私の妹だけど、二人の奥さんたちにも株を渡しました。私の妻にも渡した。苦労させたからね。その後、株式を分割していったから、渡した株式はどんどん増えて、それが大きな財産になった。
ただし、会社が借金をするときに経営者が個人保証するでしょ。でも、二人には個人保証はさせなかった。銀行が「役員している二人にも個人保証させてください」と言ってきたけど、受けなかった。個人保証したのは、私と私の妻だけ。おふくろに、「どんなことがあっても、弟二人に個人保証をさせてはだめだよ」と言われていたから、それは守った。借金するたびに個人保証したら、寝るに寝れない。安心して生活送れませんからね。
「分かち合う資本主義」を実現するため、正社員だけでなく、一部のパート・アルバイトにも株配る
八木 昨年、従業員の方々にも約4億円ほど株をお分けになりましたね。
神田 昨年は創業50周年の感謝の意味を込めてね。2018年にも、私が持っている株式から贈与したので、合計で10億円ぐらいですよ。
正社員だけではなくて一部のパート・アルバイトさんにも渡した。1人あたり100株から400株。贈与税がかからない範囲で譲渡しました。株式は売らない限り税金はかからないけど、持っていれば配当は入るし、株主優待をもらえる。会社が株式を分割すれば、持ち株も増えますからね。
経営者で株式を従業員に贈与するのは、あまりやらないね。だけど、私が考えているのは「分かち合う資本主義」だから、渡すわけです。
スナック経営で失敗、ラーメン専門店やって失敗、「それが私の宝になった」
八木 事業で失敗をしたことはありますか。
神田 一番大きい失敗をしたのは、お店を持って2軒目のときに、スナックをやったことです。ラーメン店を初めて開いて、2軒目をやろうとしたら、大家さんが「あんたは商売うまいから、次はスナックがいいよ」と言われて、やってしまった。色気がないといけないので妹まで働かせてスナックを開店したけど、散々だった(笑)。借金も残った。
スナックを成功させていたら、私の性格からすれば、今の日高屋はなかったかもしれません。失敗して本当に良かった。
あのときの失敗が最高の宝になったね。若い時分はいろいろな失敗をしたら、勉強になる。いろいろ失敗しても神様が一生懸命やれって教えてくれたと思っています。
八木 ほかにはどんな失敗がありましたか。
神田 中華料理「来々軒」をさいたま市で創業したのが最初。酢豚だとかチャーハンとか作るのだけれど、料理のマニュアルが簡単にはできない。それで、お客さんから「甘い」「しょっぱい」とクレームが来てどうしようもない。それで、1994年に新業態「ラーメン館」を始めた。
ラーメンは簡単に作れると思って、逃げたんだな。ところが、ラーメン専門店は難しい。所詮は、一つのスープでいろいろなラーメンを出したから、おいしくないよね。それが事業での失敗だった。
でも、ラーメン館の失敗は、チャンスになった。来来軒とラーメン館の真ん中をやったらいいんだとひらめいて、できたのが今主力業態の「熱烈中華食堂日高屋」。町中華、総合中華の業態だね。それで、2002年に、日高屋の1号店になる新宿東口店を開いたのが、その後の事業拡大に結びついた。
八木 失敗を生かしていますね。
神田 日高屋の店で昼間料理を作っているのは、家庭の奥さんですよ。7、8年前に千葉県柏市の店に行ったときに、ヒントをつかんだことがあるの。店に行って食べたらおいしいわけ。それで「うまいね」って感想を言ったら「うまいのは当たり前よ。家庭で毎日作っているし、今朝も作ってから出勤したのよ」と言うわけだ。そのとき、「これだ」とピンと来た。
それから、昼間のメニューを作るのは家庭の奥さんとか女性を積極採用しました。女性が中華を作れるように軽い中華鍋を採用した。うちは、「職人を使わない中華料理」という代名詞までいただいた。
和民や庄屋などの居酒屋、吉野家などの食事中心の店、その間にいるのが日高屋
八木 総合中華という業態がユニークです。
神田会長の『挑戦、挑戦』という言葉が素敵です
神田 外食は、和民さんや庄屋さんみたいな居酒屋があれば、吉野家さん、丸亀製麺さん、大戸屋さんのように食事がメインの業態があるでしょ。うちは、ちょうどその真ん中ですよ。「ちょい飲み」して食べる業界だね。
専門家に言わせると、「日高屋はどっちつかずだからダメだ」っていう議論がいっぱいあります。私はそんなことはないと思っていますよ。
他の業界を見ても「ちょい買い」が流行っている。ドラッグストアを見てご覧なさい。薬の売り上げなんて半分もない。残りは弁当だったり、ビールだったり、食料品だったり。ちょい買いで来店を促しているわけですよ。
八木 ロードサイド店を次々と開店していますね。
神田 2月に茨城県坂東市に「日高屋 坂東辺田店」を出しました。国道354号線沿いのロードサイド店ですよ。ロードサイド店に日高屋が進出できるのは、昼は家庭の主婦を中心とした食事、夜は居酒屋に変身するからですよ。
お客さんはどうやって夜に来るのかといったら、奥さんと旦那さんのどっちが運転するかを決めて来店したり、運転代行を使っているね。だから、利益率の高いアルコールの売上に占める比率が高いよ。
成功の要因は「人とのめぐり逢い」。めぐり逢いで都心進出、上場決定
八木 ほかに成功の秘訣はありますか。
神田 人とのめぐり逢いだね。人と出会って、成功した一つが東京進出でした。最初は「東京は家賃が高いから店を開くのはやめようかな」と思っていた。
新宿の西口で銀行が開くパーティーがあった。うちはまだ小さなラーメン店チェーンだったから、恥ずかしくてあまり行きたくなった。意を決して行った。
そこで名刺交換したのが、三井住友銀行新宿支店長だった。あるとき、その支店長さんが来て、「銀行のお客様が撤退するが、その跡地に神田さんのラーメン店を出しませんか」と言ってきてくれた。
それで進出したのが、西武新宿駅前の店だね。初めて東京に出たけど、この店は最初、多くのお客さんが並んだからね。すごいよ。
上場したのも、人とのご縁ですよ。品川で3万5000円の有料セミナーがあると案内が来てね。案内状を見ると、料金のところに×印が付けてあって、「ご招待」と印刷されている。それで行ってみたわけ。
セミナーで店頭公開するには、トラック1台分ぐらいの書類を作らなきゃいけないとか、死人が出るとか、脅された。うちは無理だな、と思った。
ところが、そのセミナーで長期信用銀行系列のベンチャーキャピタルの人と知り合った。その人が資本政策を作ってくれて、それで店頭公開することができた。これも人の縁だね。株式公開していなければ、450店舗は作れなかった。株主のお金を使わせてもらったから、無借金ですよ。
人とのご縁がこの会社を大きくしたし、苦しいときも頑張れたね。
「ライバルは王将。まだ83歳。死ぬまで挑戦して王将に負けない会社にする」
八木 一番のライバルはどの会社ですか。
神田 王将さんですよ。王将さんはすごい。追いつこうとしたけど、コロナのときに引き離された。一生懸命に追いかけているけど、王将さんのメニューはすごい。王将さんには、ボリュームを抑えた「ジャストサイズメニュー」がある。通常の半分ぐらいの餃子や海老チリソースを出している。
数店舗なら日高屋にだって作れますよ。だけど、全店で通常の半分の量を作って出すのは、オペレーションが大変です。うちもそのうちやって王将さんに追いつきたいね。
八木 今までの50年を昨年迎えられて、新しい50年が始まるわけですが、今後はどうされますか。
神田 人間は挑戦することが一番大事だと思うから、私は死ぬまで挑戦するよ。まだ83歳だから、茨城、栃木、群馬の3県を重点的に攻めて、そこが終わったら他の地域にも進出しますよ。
今後の展開は、人を育てられるか次第ですけど、自分が言うのはおかしいけれど、こんなに強い会社はありませんよ。進出した地域では全部勝ちます。600店舗ぐらいするまでに、私は現役で挑戦しますよ。
1941年埼玉県生まれ。中学卒業後、色々な職を転々とした後、ラーメン店で働く。オーナーから店の経営を任されたことで貯めた資金などをもとに、1973年に埼玉県大宮市(現:さいたま市)内にラーメン店「来々軒」を開店。1978年に有限会社日高商事を設立、代表取締役社長に就任。1993年に都内1号店を出店。1998年に株式会社ハイデイ日高に商号を変更。1999年ジャスダック市場に株式公開。2005年に東証二部、2006年に東証一部に上場(現:東証プライム上場)。2009年に代表取締役会長に就任、現在に至る。
各業界のトップとの対談を通して”企業経営を強くし、時代を勝ち抜くヒント”をお伝えする新連載「ビジネスリーダーに会いに行く!」。第13回目は、総合中華で躍進を続けるハイデイ日高の創業者である神田正会長にお話を伺いました。笑いあり、驚きありのインタビューは、「業界の反対を行くから成功する」「同じことをやらない」という神田会長の成功の秘訣に学ぶことがたくさんありました。